上杉憲定
| 時代 | 室町時代前期 |
|---|---|
| 生誕 | 天授3年/永和3年(1377年) |
| 死没 | 応永19年12月18日(1413年1月20日) |
| 戒名 | 光照寺大全長基 |
| 官位 | 安房守、右京亮 |
| 幕府 | 室町幕府関東管領、上野・伊豆・武蔵守護 |
| 主君 | 足利氏満→満兼→持氏 |
| 氏族 | 山内上杉氏 |
| 父母 | 父:上杉憲方 |
| 兄弟 | 憲孝、房方、憲定、憲重 |
| 子 | 憲基、佐竹義人 |
| 花押 |
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上杉 憲定(うえすぎ のりさだ)は、室町時代前期の守護大名。上杉憲方の嫡男で関東管領、上野国・伊豆国守護。山内上杉氏の当主。
生涯
[編集]誕生・前半生
[編集]天授3年/永和3年(1377年)、当時の鎌倉府で関東管領を務めていた山内家の上杉憲方の嫡子として誕生した[1]。明徳3年(1392年)には、嫡男となる上杉憲基が生まれている[2]。
家督相続と出家
[編集]応永元年(1394年)10月24日、父憲方の死により山内家の家督を継ぎ、安房守の受領名を称した[1]。しかし憲方が務めていた関東管領の職については、憲定がまだ20歳と若いことから、当時60歳であった犬懸上杉氏の上杉朝宗が務めることになった[3]。応永2年(1395年)7月14日付で室町幕府前将軍(大御所)の足利義満の御行書により、幕府から伊豆守護・上野守護職、そして父の旧領を安堵される[4][5][6]。さらに翌応永3年(1396年)7月23日には、幕府から長野郷(群馬県高崎市)などの所領を安堵された[7]。
応永5年(1398年)11月、2代鎌倉公方の足利氏満が亡くなったことを契機に出家し、長基という法名を称した[1]。『上杉系図』では「号佐々入道」と記されており、嫡子の憲基が暮らした記録がある鎌倉の佐介邸と名が似ていることから、出家後に憲定がこの佐介の邸宅に移ったのではと推測する説がある[8]。また同月24日には義満から、丹波国八田郷内本郷・漢部村(原村を除く)を与えられた[9]。
応永の乱
[編集]氏満の跡を継いで3代鎌倉公方となったのは息子の足利満兼であった[1]。満兼は、公方就任の翌年にあたる応永6年(1399年)11月に勃発した応永の乱において、義満を倒そうとした周防国他6か国の守護を務める守護大名・大内義弘に呼応しようとする。鎌倉の満兼と西国にいる義弘の間は、義満から九州探題を罷免された今川貞世(了俊)が仲介したといい、義満を倒した後には将軍に満兼が就くという構想だったという[10]。
満兼は代々鎌倉公方が軍勢催促を行う地である武蔵国府中へ出陣したが、憲定は満兼を説得して、その場に押し止めた[11]。このことで同年12月に義満から「無為申沙汰」したことに対しての喜びと、満兼の赦免を伝えられた[12]。同月末、義弘は籠城していた堺で討ち取られ、応永の乱は終結した。

翌年の応永7年(1400年)1月18日に幕府は、満兼を頼って関東へ逃亡した了俊の討伐を憲定に命じた[1][13]。ただし了俊は鎌倉府の説得には応じず、同年10月に幕府が再度の討伐を決定した際に上洛し、義満に謁見している[14]。
義弘の死後、満兼は和睦のために同年6月15日付で願文を三嶋社(三島大社)に奉納した[15]。憲定はこれを5月下旬に三嶋社に納めた[16]。三嶋社は憲定が守護を務める伊豆国内にあるため、当時関東管領だった朝宗ではなく、憲定の主導によるものであったことがわかる[15]。満兼はこの願文の文章中に、憲定を、従来ならば関東管領のことを指す「補佐」と称した[17]。これは憲定が関東管領に匹敵する地位にあったことを示す。同年6月4日、満兼の命で守護を務める上野国に派遣され、満兼の子である乙若丸(のちの足利持仲)を連れて鎌倉に戻った。
次男を佐竹家養子に
[編集]同年、次男の龍保丸(上杉義憲)が誕生した[8]。龍保丸は常陸守護の佐竹義盛の嗣養子となり、応永14年(1407年)9月に義盛が後継ぎの男子がいないまま亡くなると、跡を継いで常陸守護となった(渡辺229)。佐竹氏にとっては山内上杉氏と縁戚となって鎌倉府での立場を固めることにつながったが、上杉家の人間が当主になることに一族内では反発もあり、後年に幕府が反義憲派の佐竹与義を常陸守護に補任しようとする問題が起きるなど[18]、北関東情勢の新たな火種となる[19]。

応永10年(1403年)1月16日、父の憲方が開基となった鎌倉の明月院に、上野国長野郷西柴村半分と、武蔵国馬室郷の五分の一を寄進した[6]。さらに同年11月24日、幕府から尾張国印庭荘の替え地として丹波国漢部村(原村を除く)と上野国衙職を与えられた[6]。
関東管領就任
[編集]応永12年(1405年)10月、憲定は関東管領に就任する[20]。同年10月29日付の奉書写しが憲定の関東管領としての活動の初見となる[3]。この関東管領の交代は、朝宗が69歳と高齢となったことや、憲定が数え年33歳となって年齢的問題が解消されたことに伴う交代と見られている[21][3]。同時に関東管領が兼帯する武蔵守護職にも就任した[3][22]。木下聡はこの交代について、応永の乱との関係も指摘する[3]。武蔵守護代は長尾憲忠が勤めており、同年12月25日付の憲忠の請文が、憲定の武蔵守護としての初見となる[22]。
応永16年(1409年)7月、満兼が33歳の若さで亡くなった。朝宗は公方御所を辞したその足で上総国眼蔵寺に隠居した[23]。満兼の死によって嫡男で一色氏の母親を持つ、足利幸王丸(持氏)が跡を継いで4代鎌倉公方となった[24]。同年8月15日、当時12歳で元服前の持氏は、憲定が居住する鎌倉の山内の屋敷に入った[25]。

これは満兼の弟で、持氏の叔父である足利満隆の陰謀の雑説があったためだという[17]。その数日後の同年9月3日に持氏は公方御所に戻った[26]。
足利満隆謀反の噂、管領辞職と死
[編集]翌年の応永17年(1410年)8月15日、満隆謀反の噂が流れ、持氏が山内の憲定邸に逃れるという騒動が起きた[27]。持氏が公方の近臣である犬懸上杉氏の上杉氏憲(法名禅秀、朝宗の子)ではなく、憲定の元に逃げ込んだのは、禅秀が満隆と結託している情報を得ていたためとみられている[27]。
この騒動の後、満隆が咎められた形跡はなく、同年10月11日に関東管領が憲定から禅秀に交替していること[28]、この満隆・禅秀の2人がのちに上杉禅秀の乱でも結託していることから、この騒動を、持氏と山内上杉氏に対する満隆と犬懸上杉氏による政変だったのではないかと、江田郁夫は指摘する[27]。つまり、持氏を抱え込もうとした憲定と満隆の間で主導権争いが起き、憲定が追い落とされたという形となる[29]。
憲定の管領辞職としての活動は、同年7月28日付で室町幕府の管領・畠山満家に宛てた奉書が終見となり、関東管領の交代に伴って武蔵守護も禅秀に変わった。さらに満隆は、持仲を、おそらくは憲定から取り上げるという意図のもとで養子に迎えた[29]。
この騒動から2年後の応永19年(1413年)8月7日、憲定は将軍・足利義持から丹波国の所領の安堵を受けた後、同年12月28日に死去する[30]。「上杉系図大概」によると大酒の後の頓死で[31]、酒により病となったその日の夕方に亡くなったという(大日本史料)。享年38。戒名は先照寺殿長基大全。跡を長男の憲基が継いだ[30]。
出典
[編集]- 1 2 3 4 5 黒田 2015, p. 278.
- ↑ 黒田 2016, p. 290.
- 1 2 3 4 5 木下 2015, p. 240.
- ↑ 木下 2015, p. 243.
- ↑ 木下 2015, p. 246.
- 1 2 3 植田 2013, p. 387.
- ↑ 高崎市市史編さん委員会 編『新編高崎市史』資料編 4 (中世 2),高崎市,1994.3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/13197243 (参照 2026-10-18)、p.192
- 1 2 黒田 2015, p. 280.
- ↑ 『大日本史料』7編3冊,東京大学史料編纂所,大日本史料総合データベース.1994.3.https://wwwap.hi.u-tokyo.ac.jp/ships/w61/detail/020100016935?basemgno=020100016935&dispid=disp01&type=1 (参照 2026-10-18)、p.598
- ↑ 杉山 2019, pp. 48–49.
- ↑ 植田 2022, pp. 117–118.
- ↑ 黒田 2015, pp. 278–279.
- ↑ 駒見 2019, p. 406.
- ↑ 植田 2022, p. 121.
- 1 2 杉山 2019, p. 49.
- ↑ 植田 2022, p. 120.
- 1 2 黒田 2015, p. 279.
- ↑ 植田 2022, p. 149.
- ↑ 植田 2022, p. 126.
- ↑ 植田 2022, p. 124.
- ↑ 駒見 2017, p. 409.
- 1 2 木下 2015, p. 242.
- ↑ 駒見 2026, p. 48.
- ↑ 木下 2015, p. 241.
- ↑ 駒見 2026, pp. 48–49.
- ↑ 植田 2016, p. 353.
- 1 2 3 駒見 2026, p. 49.
- ↑ 黒田 2016, p. 288.
- 1 2 植田 2022, p. 128.
- 1 2 黒田 2016, p. 289.
- ↑ 植田 2022, p. 129.
参考文献
[編集]- 植田真平『鎌倉公方と関東管領』 第4巻、吉川弘文館〈対決の東国史〉、2022年1月。ISBN 9784642068703。
- 黒田基樹 編『足利満兼とその時代』 第3巻、戎光祥出版〈関東足利氏の歴史〉、2015年。ISBN 978-4-86403-150-9。
- 木下聡「足利満兼期の関東管領と守護」、239-249頁。
- 黒田基樹「満兼期の上杉氏」、278-289頁。
- 黒田基樹 編『関東管領上杉氏』 第11巻、戎光祥出版〈中世関東武士の研究〉、2013年6月。ISBN 978-4-86403-106-6。
- 植田真平「南北朝・室町期上杉氏年表」、376-392頁。
- 黒田基樹 編『足利持氏とその時代』 第4巻、戎光祥出版〈関東足利氏の歴史〉、2016年。ISBN 978-486403-213-1。
- 黒田基樹「持氏期の上杉氏」、288-330頁。
- 植田真平「足利持氏略年表」、353-364頁。
- 駒見敬祐「関東管領上杉朝宗考」『文学研究論集学』第46巻、2017年、399-412頁。
- 駒見敬祐『上杉憲実:足利義則と持氏の狭間で苦悩した関東管領』 第55巻、戎光祥出版〈中世武士選書〉、2026年。ISBN 978-4-86403-602-3。
- 杉山一弥 編『図説鎌倉府 構造・権力・合戦』戎光祥出版、2019年。ISBN 978-4-86403-330-5。